「とばし」という名の先送り経済学――山一証券はなぜ自ら幕を引いたのか

社長が泣いた日

1997年11月24日、東京。

創業からちょうど100周年の節目の年に、四大証券のひとつだった山一証券の野澤正平社長が記者会見の場で号泣した。「私らが悪いんであって、社員は悪くありません」。この一言と滂沱の涙は夜のニュースで日本中に流れ、平成不況を象徴する光景として多くの人の記憶に刻まれた。

その日、山一証券は取締役会の決議により、自主廃業に向けて営業を休止する旨を大蔵大臣に届け出た。1897年創業、100年の歴史を持つ証券会社が、一日で店を閉めた。従業員は約7,500人。負債総額は約3兆5,000億円。当時の戦後最大規模の経営破綻として、この日は日本経済史の教科書に刻まれることになる。

しかし、少し立ち止まって考えてほしいのだが、野澤社長はその会見の場で「私らが悪い」と言った。「私が悪い」ではなく「私ら」だ。

この「私ら」の中身が、この事件のすべてを物語っている。

翌日から証券取引等監視委員会が特別検査に着手し、約4か月にわたる調査の末、1998年3月20日、犯則嫌疑法人山一証券および元代表取締役会長、元代表取締役社長ほか1名が東京地方検察庁に告発された。証券取引等監視委員会 報告書(平成10年)

「私ら」の正体と、野澤社長が実は「私ら」の一員ではなかったという皮肉な事実を、順を追って解きほぐしていきたい。


野澤正平という人物について

まず、号泣した野澤正平社長その人について触れておかなければならない。

野澤氏は長野の農家の四男坊出身で、私立大学を卒業後、一介の営業マンとして山一証券に入社した。東京大学卒・大蔵省担当経験者でなければ社長になれないと言われた山一証券において、たたき上げの営業出身者が社長になること自体が異例の出来事だった。

社長に就任したのは1997年8月、廃業のわずか3か月前のことだ。それも、別の理由での就任だった。同年、総会屋への利益供与事件の責任を取って、行平次雄前会長・三木淳夫前社長ら11名の役員が総退陣。その後を引き継ぐかたちで、専務だった野澤氏が社長に就いた。

重要な事実は、野澤氏は社長就任時、会社が約2,600億円の簿外債務を抱えているという実態を知らされていなかった、という点だ。歴代の経営幹部が秘密裏に積み上げてきた「積み上げた虚無」を、就任3か月後に自分で発表させられる羽目になった。

あの「私らが悪いんであって」という言葉は、だから正確に言えば少し不思議な告白でもある。野澤氏自身は、この不正を作った「私ら」の側にいたわけではない。にもかかわらず彼は、組織の長として全責任を引き受けようとした。それが誠実な人間の選択というものだと、私は思っている。

では、本当の「私ら」とは誰だったのか。


「山一のドン」と「握り」という禁断の約束

キーマンは行平次雄という人物だ。「山一のドン」と評された男で、山一証券の社長・会長を歴任し、日本証券業協会の会長も務めた。証券業界の重鎮中の重鎮だ。

問題の発端は、バブル絶頂期の1987年頃にさかのぼる。

当時、山一証券では「握り」と呼ばれる取引形態が広まっていた。「握り」とは、法人顧客に一任運用の契約を結ぶ際に、利回りを保証して資金を集める行為だ。「このお金を預けてくれれば、必ず○%の利回りを出します」と約束する。これは当時の証券取引法が禁じる行為だったが、株を買えば上がる一方だったバブル期には、約束を守ること自体はさほど難しくなかった。

最初は現場の担当者が個人の裁量で行っていた。それが次第に部長クラスの了承を経て組織化され、1988年頃には法人営業担当の役員が条件を決定・管理するまでに「制度化」されていた。証券取引等監視委員会の調査によれば、1989年5月から1991年9月の間に、利回り保証を約して勧誘されていた法人顧客は86社に上った。

法律を破っているという自覚はあったはずだ。しかし、相場が上がり続けている間は「誰も損をしない」という空気の前で、その自覚は薄れていった。これが組織における「倫理感覚の漸進的麻痺」だ。ここでいう漸進的麻痺とはつまり、明確な悪意からではなく、慣れと成功体験の積み重ねによって、違法行為への抵抗感が少しずつ失われていく状態のことを指す。

問題は、相場が崩れたときに生じた。


バブル崩壊、そして「損失のリレー」

1990年、バブルが崩壊した。

約束した利回りを達成できなくなった山一証券は、損失調整のために「とばし」を本格化させる。

「とばし」という言葉を定義しておこう。含み損を抱えた企業の有価証券を、他の企業に簿価で売却する直取引のことで、評価損を表面化させないために証券会社がその仲介を行う行為だ。ここでいう「含み損」とはつまり、買った時より値が下がっているのに帳簿上はまだ買値で持ち続けている状態の「見えない損失」のことだ。売れば損失が確定してしまうから売れない。だから他の誰かに一時的に押し付けて、自社の帳簿から消す。

スキームはこうだ。含み損を抱えた顧客の株式等を、別の顧客との間で「一定期間後に一定価格で買い戻す」という直取引契約によって売り渡す。決算期をまたいで株を手放し、翌期に買い戻す。これで今期の帳簿からは含み損が消える。

最初は「原始顧客→一時的な相手方→原始顧客」という形で株が戻ってくる、いわば「問題の一時貸し」だった。しかしバブル崩壊とともに含み損がどんどん拡大し、買い戻しを拒否する顧客が続出する。山一証券は今度は別の顧客に転売することを仲介するようになり、「原始顧客→相手方→さらに別の顧客」と、含み損の塊が顧客間を転々と流通していく。

損失は消えたのではない。誰かの手の中に必ずある。ただ、誰の手にあるのかが見えにくくなっているだけだ。これが「とばし」の本質、すなわち損失の時間的・空間的拡散だ。

1991年後半、ついに顧客たちが「もう解消してほしい」と強く申し出るようになった。転売先も底をつく。同年11月、山一証券は国内関係会社を使って、多額の含み損を抱えた株式等を自ら引き取り、簿外債務とする決定を行った。ここでいう「簿外債務」とはつまり、会社が実際には負っているにもかかわらず、正式な決算書に記載されていない隠れた負債のことだ。同年末までに大部分の引き取りが実行された。

含み損が「帳簿の外」に移った瞬間だった。


南半球の最終処理場へ

国内だけで処理しきれない損失は、海外へと向かった。

山一証券は、国内顧客への損失補填による損失、自己の為替ディーリングの失敗による損失、決算対策のための益出しによる損失などを、海外の現地法人に引き取らせた。手口は「独自に設計した複雑な仕組み債の取引」を経由するという構造で、仕組み債とはつまり複数の金融商品を組み合わせて設計した特殊な債券のことで、その複雑さが外部からの追跡を困難にした。

これらが最終的に集約されていたのが、山一証券のオーストラリア現地法人だ。太平洋を渡った南半球に、日本の四大証券が積み上げた損失の山が静かに堆積していた。なぜ海外か。国内子会社では連結決算に反映されやすい。海外現地法人を複数経由させれば、外部からの追跡は格段に難しくなる。地理的な距離が、ガバナンスの死角を生む。


3年連続で「嘘の決算書」を出した事実

ここで数字と向き合っておこう。

有価証券報告書の虚偽記載として告発された事実によれば、山一証券の実態はこうだった。

第55期(1995年6月提出)。実際の当期未処理損失は2,776億円だった。しかし提出された有価証券報告書に記載されたのは445億円。差額は2,331億円。

第56期(1996年6月提出)。実際の損失は2,221億円だった。しかし報告書には159億円の「利益」として計上されていた。損失2,221億円を利益159億円に化かすとは、2,380億円分の現実を書き換えたということだ。赤字を黒字に見せた。

第57期(1997年6月提出)。実際の損失は4,280億円にまで膨れ上がっていた。報告書には1,562億円に圧縮して記載された。差額2,718億円。

3期分の申告額と実態の乖離を合計すると、約7,429億円に達する。これは簿外債務そのものの額ではなく、「有価証券報告書に書かれた数字と現実の差」の累計だ。簿外債務の核心部分は約2,600億円とされているが、その2,600億円を隠し続けた結果として積み上がった虚偽記載の歪みが、3年間で7,000億円を超える規模に達した、ということだ。

この3年間、代表取締役会長を含む役員が関与しながら虚偽の数字を大蔵大臣に提出し続けた。「気づかなかった」では到底説明がつかない。


「会社を守るための嘘」か、「嘘に守られた組織」か

ここでこの事件の本質的な問いを立てたい。

山一証券の経営幹部たちは、最初から悪意を持っていたのだろうか。

おそらく多くの者は、そうではなかったと思う。「握り」が始まった1987年当時、バブル相場のなかで利回り保証をすることは、現実的に達成可能に見えた。問題が顕在化したのは、1990年以降の市場崩壊という、予測が困難な外部環境の激変によるものだ。その意味では、最初の一歩は「追い詰められた者たちの苦渋の逸脱」だったのかもしれない。

しかし、そこから先がまずかった。

損失を隠すという行為は、一度やると「次の決算まで逃げ切れれば相場が戻るかもしれない」という合理的に見える先延ばしを正当化してしまう。ところが相場は戻らず、含み損はさらに膨らむ。次の決算でも隠す。その次も。こうして「一時的な隠蔽」が「組織的な慣行」に変容し、やがて「慣行」が「制度」になる。

この構造を称して「組織的腐敗の漸進的内面化」と言う。誰かが最初から「腐敗した組織を設計しよう」と意図したわけではなく、合理的に思えた小さな選択の積み重ねが、気づけば引き返せない腐敗構造を作り上げていた、ということだ。

「会社を守るための嘘」は、いつの間にか「嘘によって守られる組織」へと変質する。これがこの事件の本質的な問いだ。組織の生存のために個人が嘘をつくのか。それとも、嘘をつき続けた組織の中に個人が囚われていくのか。どちらが先に生まれたかは卵と鶏の問いに似ているが、結末は同じだ。1997年、ある日蓋を開けたら約2,600億円の簿外債務と3兆5,000億円の負債が現れた。

そして「山一のドン」行平次雄は有罪判決を受け、2010年に死去した。一方で、自分が作ったわけでもない「積み上げた虚無」の後始末として廃業会見の場に立たされた野澤正平は、泣きながら「私らが悪い」と言った。不正を知っていた者と知らされていなかった者が、同じ「私ら」という言葉で括られる。組織の罪というのは、往々にしてそういう形で現れる。


おわりに――「積み上げた虚無」という概念語

1998年4月2日、証券取引等監視委員会は大蔵大臣に行政処分の勧告を行い、山一証券に係る一連の法令違反が正式に確定した。

「とばし」という技術の本質は、損失の先送りだ。現在の苦しみを未来に転嫁することで今日を乗り越えようとする行為だ。しかし先送りされた損失は消えない。むしろ利子をつけて戻ってくる。1987年に始まった小さな先送りが、10年後の1997年に約4,280億円の実態損失という形で現れた。

ビッグローブの2,460億円の架空計上も、山一証券の約2,600億円の簿外債務も、構造は驚くほど似ている。「今期だけ乗り越えれば何とかなる」という信仰のもとで積み上げられる、嘘の成層圏。成層圏に達した嘘は、自重で崩れるとき、自分だけでなく周囲のすべてを巻き込む。

帳簿の上に精巧に組み上げられた「存在しない数字の記録」。10年かけて積み上げられた、架空の繁栄の堆積。それが崩れ落ちたとき、野澤正平社長は記者の前で泣いた。自分が作ったわけでもない虚無の前で。

それをひと言で表すなら、積み上げた虚無、だ。

どんな組織も、帳簿に書かれた数字だけでは語れない現実を抱えている。その現実を直視し続けることだけが、いつか同じ場所に立たされないための唯一の方法だ。野澤社長の涙を忘れないようにしたいと、グッとこらえながらそう思います。い。私もグッとこらえながら、そう信じていたいと思います。

今すぐお電話ください!

簿外債務の解決策、簿外債務の調査・第三者委員会立ち上げ、修正申告のお問い合わせなどお気軽にお問い合わせください。

投稿者プロフィール

簿外債務調査プロ
簿外債務調査プロ
簿外債務の調査に精通し、数多くの企業をサポートしてきました。日々の業務では「クライアントファースト」を何よりも大切にし、丁寧で誠実な対応を心がけています。現状が既にベストな状態であれば、現状維持を優先してご提案するなど、常にお客様の利益を第一に考える良心的な姿勢が信条です。お困りの際は、ぜひお気軽にご相談ください。